No.8 学習集団作り

 学校で学ぶということの意味は、様々であるが、非常に重要なポイントとして、集団で学ぶことができるという点が上げられる。

 集団で学ぶことの良いところは、これまでも様々指摘されてきたが、最近では特に、知識伝達型の授業から脱却するための方策として集団性を重視する傾向が強い。

 「学びの共同体」や「コミュニティー」等ということばが、佐藤学さんあたりから提唱され、学習集団を「一人学び」と対峙するものとしてではなく、学校での学習のもっと根本的な要素として位置づける考え方が浸透してきている。
 授業で個人の学びをどこまで追求しても、常に集団の中の個人であって、その集団性から逃れうるすべはない。機械的に個人思考から集団思考へと誘い、また個人思考へと返すような授業展開も、実は教師の絵空事の中にあったのかもしれない。
 それならば、最初から集団というものを意識したクラスづくりをおこない、集団で学ぶことの利点を最大限に発揮した授業を計画するべきではないか。
 こう考えると、そんなの当たり前だろうと思うかもしれないけれど、集団性を追求することに重きを置くと、必ず学習者個々人の学力はきちんと身についているのだろうかと不安になる。
 みんなで答えを導くというと格好がよいのかもしれないが、その実態は、良くできる子がいつも答えを導いているにすぎず、他の多くの子どもは、出された答えに追従しているにすぎない場合が多い。
 一人一人の思考を十分促し、個々人のぶつかりが生み出され、より深い思考へと導くことが本当の意味での学習手段のあり方なのではないか。こう考え実践した時期は1960年代中盤から70年代にかけてであったように思う。
 吉本均先生や大西忠治さんが「学習集団」や「集団思考」の重要性を説いた時、学習集団の中に個人を埋没させないこと、個人思考のぶつかり合いや練り上げによる集団づくりが盛んに指摘された。
 これは現代にも当てはまる重要なことではあるのだが、私の考えは些か違うところにある。
 国語科を中心にコミュニケーション能力の育成が重視されるようになったのは、若年層の人間関係形成能力が低下し、引きこもりなどの社会現象を生み出していることが背景にある。
 しかしそれ以上に、通信手段が高度化し、人と人とのつながりが対面型のコミュニケーションから、メイルやチャットなど非対面型のコミュニケーションへと推移する中で、必要なときにはいつでもつながり合うことのできる環境が整ったことで、人間関係が時間と空間を飛び越えることができるようになったことによるところが大きい。
 「コラボレーション能力」の発想はこれからの日本社会の仕事のあり方を示唆する。一人がどんなにがんばっても所詮一人の力でしかない。それ以上に、勉強や仕事は一人でするものだ、という考え方自体が間違っている。
 通信手段が発達した現在、目的を達成するために必要な人材や情報は最大限に利用することが容易に可能である。大切なのは、自分自身の能力を高めることと共に、自分の周囲(広い範囲での)にある人材や情報を発掘し、それを効果的に利用していく能力なのだ。
 こう考えると、自分の能力は自分の頭の中に存在するものではなく、自分が確保している情報源とつながり合っている人材の総合であるといえる。

 学校教育において、この「コラボレーション能力」を育成していくことは非常に重要なことである。個人の思考を高める手段として集団を利用するのではなく、集団の中に参加していく個人、集団を作り上げていく個人を作り出すこと、そのために授業において集団性を重視していかなければならない。