No.66 プロジェクトゼロ

①プロジェクトゼロに至る経緯
 1967年に開始されたハーバード大学の「プロジェクト・ゼロ」は当初、グッドマンが提唱した「構成主義」に基づいて、芸術的能力育成のプログラムの開発に取り組んでいた。
 しかし1980年代からは、ガードナーが提唱した「多元知能理論」に基づいて対象となる能力を拡張していった。
 ガードナーの提唱する理論では、学校が評価すべき能力として、①言語的知能、②論理数学的知能、③音楽的知能、④身体運動的知能、⑤空間的知能、⑥対人的知能、⑦内省的知能、⑧博物学的知能の八つを挙げている。
 これらの能力の育成を目指して、開発された学習プログラム「プロジェクト・スペクトラム」は、学習者が自分でこれらの知能を発見し、形成し、評価する学習プログラムであり、八種類の能力は、技術制作、科学、音楽、運動、算数、社会、理解、言語、映像芸術という八種類の学習活動に置き換えられ、その中で必要とされる32種類のキーとなる能力を提示している。

 

 

②発見すること
 プロジェクトゼロが提唱する学習プログラムの中で、特に特徴的なのが、提示した能力を学習者自らが発見する場面を重視していることにある。学習活動を対象化するために特に近年日本でも導入されているポートフォリオ評価を用いるが、これは何を学んだかやどのような結果を得たかといった学習自体の振りかえりではなく、あくまで学ぶプロセスを対象化することでそこで用いた能力自体を学習者に発見させようとするものである。
 これは田中智志なども述べていることだが、そもそもアメリカ社会では能力は生まれつき持っているという生得的な考えが強く、それを見出し育てていくということを教育の目的としている。それぞれの子どもがそれぞれの能力を生まれつき持っており、それを誰か(特に教師)が発見しのばしてやるというこれまでの考え方から転換し、学習者自身がそれを見出し自分の力でのばしていく、そのための見通しも持つことが重要であると考えている。
 このように述べてくると自己学習を重視してきた近年の日本の教育の動向とも重なるところがあるのであるが、私などは、どの子にも共通に社会生活に必要な力を身につけさせるという日本の教育界の理想に染まっているところもあるので、生まれながらにして持っている能力を発見しのばしてやること自体にアメリカ社会の現実主義的な傾向を感じるが、確かに、そういう領域も、例えば芸術や体育などあるのは明らかなことだと思う。それが全ての教科においてそうであるということに対しては違和感はあるが、現実に直面するとそうとばかり言えない部分もかなりある。みなさんはどう考えるだろうか。
 今の日本の教育界では、私と同じように感じる人々は多いが故に、こういったプロジェクトゼロのような非常に現実的な考え方を完全に導入することに対して違和感を感じているが、現実的には天才プロゴルファーや天才芸術家が若くして誕生し、それと同様のことが潜在的とはいえ国語や算数理科社会などの一見努力を基盤にしたような教科においても当てはまると考えることができるのだろうか。
 高校生の学力が二極分化し、その差がどんどん広がっているとこの間文部科学省の方が講演していたが、それは大学生などを見ても実感する。こういった現実から目を背けながら努力主義を貫いていくことが本当によいことかどうかは一概には言えないことのように思う。