No.52 ヒィドウン・カリキュラム

潜在的な学習効果
 学校教育を十二年間受けてくると、様々な身のこなし方を覚えてしまう。身のこなし方だけではなく、考え方や感じ方まで身についてしまう。これが潜在的に身についたものだけに非常にやっかいなkものとして映ってしまうことが多い。
 自分の成績が悪いのは基本的に自分の努力不足が原因だというメリトクラシーの考え方などは全くそうである。教え方が下手だったかもしれないし、学習内容が自分に適合してなかったかもしれないにもかかわらず、全て自分の努力不足に還元して、ますますダメな人間のように思ってしまう。
 ヒドゥン・カリキュラムとは、こういった学校教育を受けていく中で潜在的に学習される考え方や身のこなしを指している。

 

 

②経験の蓄積と苦手意識の形成
 すごく厳しい教師の下で、作文指導などを受けると、もう自分は作文を書く力が全くなくて、自分は作文が苦手だと思ってしまう。経験の蓄積されていく方向性は様々だが、そこには権威(教師)からの評価が絡んでくる。
 マイナスの評価を受けた経験はマイナス方向に蓄積されていきやがてそれは苦手意識の形成につながる。プラス評価の場合はこれの反対だ。
 人間の能力は、得手不得手という二分立によって支配されるものではない。具体的で詳細な傾向があるのは確かだが、作文が苦手なのか、意見文を書くのが苦手なのかといった受け止め方の違いが経験の蓄積やその後の学習に大きな影響を及ぼしてしまう。
 ヒドゥンカリキュラムとは、フランスの社会学者、ブルデューあたりが好んで指摘する文化的再生産の考え方に用いられる概念だが、それ以上に教師が評価の観点を具体化していくことで彼らの学習経験の蓄積の仕方をコントロールしなければならないと言うことに役立てるほうがよいように思う。

 

 

③まずは自分の束縛を解いて欲しい
 ヒドゥンカリキュラムとして潜在的に身についていることは結構私なんかもどきっとするときがあるように教師自身がかなり潜在的なカリキュラムによって縛られているところがある。学習者に再生産しないためにも、自分の身のこなし方や考え方が学校文化の中で潜在的に形成されたものではないかチェックする必要がある。持っておいて役立つものならばそのままでもいいけれども、結構そうでないものが多いので気を付けて欲しい。文型・理系などと人間を二分化して捉えたりするものの見方なども学校文化の中で醸造された歪んだ人間観なのだと思う。