No.53  国際理解教育

①国際理解教育重視の経緯
 1974年にユネスコから、「国際理解・国際協力及び国際平和のための教育並びに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告文」が提示された。その中には、指導原則として以下の七つの観点が示された。
①全ての段階及び形態の教育に国際的側面と世界的視点を持たせること。
②すべての民族、その文化、文明、価値及び生活様式に対する理解と尊重
③諸民族及び諸国民の間に世界的な相互依存関係が増大していることの認識。
④他の人々と交信する能力
⑤権利を知るだけでなく、個人、社会的集団及び国家にはそれぞれ相互の間に負うべき義務があることも知る
⑥国際的な連帯及び協力の必要性についての理解
⑦個々人が、自己の属する社会、国家及び世界全般の諸問題の解決に参加する用意を持つこと

それを受けて我が国でも国際理解教育を重視する傾向が高まった。しかしその流れは、単に国際社会に属する諸外国のことを理解する教育にとどまり、相互に交流する主体的な国際人としての育成をなしえなかったという反省に基づき、「国際教育」と名前を変えて、現在は国際社会において主体的に行動できる人材の育成を目指した教育が進められている。
 参考までに平成8年度中教審答申などで提示されている国際理解教育は①異文化理解とこれを尊重し共生できる資質と能力
②自己の確立、③コミュニケーション能力、の三点を重視していたが、初等中等教育における国際教育推進検討会の報告では、①異文化や異なる文化を持つ人々を受容し「つながる」ことのできる力、②自らの国の伝統・文化に根ざした自己の確立、③自ら発信し行動することのできる力、の三点へと重点が移行してきている。

 

 

②理解の対象は
 異文化理解ということを考えると、自国の文化もよく知らないのに何が異文化理解だという人がいる。これは決して暴論ではなく、一理ある考え方だ。異文化を理解するスタンスは自国の文化との相対化でなければならないし、多くの国々の理解を得るのならば、何らかの観点やカテゴリーによって他国の文化への理解を深めなければならない。
 つまり異文化理解の根本には自国の文化への深い理解が必要となる。結局、自国文化理解と異文化理解の相克が個々で生まれてきて、どちらが先なのかということが問題になるのである。同時に並行して行えるならばそれはそれでいいのだけれども実際にはどちらともばらばらに行われている傾向が強い。自国の文化理解を促しているのはどの教科なのか?この問題も実は大きい。社会科なのか国語なのか美術や音楽なのか、全部なのか?こう考えるとかつて地域単元が衰退した頃、都会のことはよく知っていても自分の暮らす地域のことはよく知らない学習者が出てきたりして困ったことがある。

 

 

③価値判断なしでは・・・
 モンゴルでは「バヤルララー」と滅多に言わないそうだ。ある国語教科書の教材にそういった文章が載せられている。日本語では「ありがとう」は頻繁に使う美しい言葉である。滅多に言わないから価値があるという考えを出されるとそれはそうかもしれないが、常に感謝の意を伝え合う関係もまた美しい関係である。
 金子みすずの詩ではないが「いろいろあってそれがいい」では済まないのが国際理解教育なのではないか。例えばクジラを食べる我が国の文化は、他国の批判の的にされ、捕鯨制限下でクジラを食する文化そのものが失われつつある。これはおそらく文化の相対化のプロセスである種の観点から優劣や善し悪しが決定されていることを意味している。
 教師が一歩踏み込んで学習を組織しようとすればどうやってもこの価値判断を持たざるを得ない。そうすることでより効果的な国際教育が進められるからだ。価値判断のない知識をいくら持たせても、主体的に交流する国際人は育たないのではないか。