No.44 カリキュラム

 今、教育も地方分権型に移行していこうとしている。6・3・3制も弾力化して、小・中一貫校や中・高一貫校などが作られてきている。
 こういった流れと連動して、それぞれの学校がそれぞれの独自性を出す必要性に迫られている。「学校の独自性」を社会に説明するためには、一つはその学校が育成しようとする子ども像を目標の形にして示すことが考えられる。「○○小、三つの願い 元気・勇気・やる気」などと掲げているのがそれに当たる。
 こういった目標は、それぞれの学校の独自性を分かりやすく簡潔に社会に示す方法としてある程度の効果を得ている。しかし、もっと具体的にどのような内容の学習をどのような順序でどの様な方法で進めていくのかということの説明にはならない。
 そこで一歩進んで、各学年で目指す目標を示したりもするが、どこまで行ってもそれは日々の学習の到達点を示したに過ぎない。
 到達点を示すことは、学校の独自性を示すことの一つの方法ではあるが、親としては、毎日の学習がどのような考えに基づいて進められているのかということも非常に気になる。
 そこで、たくさんある学習内容の中の何を重視し、どのような方法で学習を組織し、どのような到達点を目指しているのかという学習のプロセスと方法を示したものがカリキュラムであるといえる。
 いうまでもなく、学習指導要領で示されている内容を逸脱しないと言うきつい縛りはあるにせよ、学校それぞれがどのような学習内容に重点を置いて日々の学習を組織するかと言うことは、それぞれの学校の教員集団の持つアイデンティティーであるといっても過言ではない。
 しかし現実的には、カリキュラムを考えることは非常に難しい。年間指導計画だって、三学期が終わってから新しい楽器が始まるまでの限られた期間でそれぞれの先生が考えるのだから、大概教科書にある計画を写す程度で終わってしまうことが多い。
 

校内研修によるカリキュラの創造
 今小学校に講話に行くのは、「コミュニケーション能力育成」の校内研修を進めているところか、「国語力向上モデル校」に指定されている学校がほとんどだ。県教委や市教委の指定によって始まるこういった校内研修も、教員集団のコンセンサスの確立や、カリキュラムの明確化には一役買っているように思う。
 それぞれの学校が、いずれにせよ教育内容に対して目を向け、重点を置いた学習内容に対する理解を深めたり、効果的な指導方法を模索したりすることは現職教員の実践的力量形成に役だつことは間違いない。「コミュニケーション能力の育成」などは、教科を超えて共通に取り組める学習内容なだけに、学校全体の取り組みや学級での取り組み、各教科での取り組みなど学校の様々な場所で様々な取り組みが盛んになることも多い。

 

カリキュムの種類
 カリキュラムは歴史的に見て二つの目的と方法によって編成されてきた。文化遺産の伝達を目的にした「教科カリキュラム」と、学習者の興味・関心、生活のなかでの経験を重視する「経験カリキュラム」である。前者は、現在の国語・算数・理科・社会・体育等々、学習内容を各教科の枠組みで分類し、それぞれの系統性に基づきながら効果的な学習を施すというものである。また後者は、「学習者の経験」を中心に置き、「自然領域」「社会的領域」「芸術的領域」の三つの領域に分類された経験を認識の広がりや社会性の発達に基づく系統性によって学習を構想していこうとするものである。
コア・カリキュラムについては、学習プランの項で解説しているので省略するにしても、そのほかにも「融合カリキュラム」や「相関カリキュラム」「広領域カリキュラム」など様々なものが考案されてきた。
「地学」、「科学」、「生物」、「物理」などを融合して「理科」と捉え学習内容を再編成したものなどは「融合カリキュラム」だし、国語と社会などを組み合わせた授業を行う、いわゆる合科の授業などは、「相関カリキュラム」といえる。大学の一般教養のように、様々な科目を融合して、人文社会、自然科学、など大きなくくりにしてしまうのが「広領域カリキュラム」の例であろう。
 いずれにせよ、カリキュラムを作成する際のポイントは、学習内容の体系化と系統化をどうするのかという点、どの学習内容吏どのような目的で焦点を当てるのかという学習内容の重点化の二つの点にある。
 そういう意味で「総合的な学習の時間」の発想はこれまでのカリキュラム研究の成果をうんと反映させているものであることは指摘できる。

人間にとって学習とは、つねにプラスの方向性を持ったいるわけではない。「国語嫌い」や「算数嫌い」、なべて「勉強嫌い」も日々の学習の積み重ねによって獲得するものである。
 特にここでいう「学習性無力感」とは、随伴性の問題に密接に原因があると考えられる。
 具体的に言うと、「作文をいくら書いてもうまくかけない」ということと「作文を一生懸命書いてもうまくかけない」とでは等しくマイナスの学習効果が生まれる可能性が高いのであるが、その内容が大きく異なっている。
「苦手意識」が生み出すマイナスの要因以上に、「努力しても結果が出ないこと」が生み出すマイナスの要因の方が根深いのである。
 学習性無力感とは、後者にあたる。努力すれば結果が出る者に対して「頑張ろう」と思えるのは、努力したら結果が出たことを学習しているからで、言い換えれば「努力-結果」という結びつき(随伴性)を認識しているからである。
 ある程度の学齢の子どもの中には、この「学習性無力感」が原因で学習しない者がいる。こうした学習者を早期に発見し、適切な指導を施していくことが、特に小学校高学年以降の教師には必要となってくる。

◎どうすればよいのか?

 「学習性無力感」を抱いている学習者に共通する傾向として、学習結果に対する原因帰属が外部の不安定な要素(運・偶然)に偏っていることが指摘されている。「テストの点がいつも悪いのは運が悪いからだ」とか「今回はたまたま悪かったのだ」といったいいわけをする学習者の多くはこうした原因帰属に偏るためにその後の学習へと進むことができない。
 先程述べた随伴性を確立する方法は学年によっても違うし、教科によっても違うが、よくいう「頑張れば結果が出ることを実感させてやること」の重要性は理論的に説明するとこんな感じで説明できる。
 つまり具体的に何をすればよいかを示すとともに、なにかさせれば必ず結果が出るように保証してやることが重要なのだ。しかも問題を簡単にするのではなくて、結果が出るまでとことんつきあっていく方法で。
 ここまでは一般的に研究されていることで、ここからは、私の研究したことになる。
 私は学習者の「学習の構え」の研究をかつて進めたことがあり、苦手意識を持っている学習者は、学習内容に対する認識が雑ぱくな者である傾向が強いことを明らかにした。つまり、国語嫌いの学習者は、国語の学習内容に対する理解がいい加減な場合が多いということである。「国語の何が嫌いなのか」という質問に対して、「作文が嫌いだから」と答える。「作文が嫌いだからといって国語全部が嫌いなわけではないでしょう」と思うのだけれども、その子にとっては、作文が国語全部と限りなく等価であるような認識をもっているのである。そういう学習者といっしょに「物語は好き?」とか「漢字の練習は?」とかいった対話で学習内容の理解を深めながら、その子が苦手意識を感じていない学習内容や好きな学習内容を発見していき、学習性無力感を解除する手がかりを探していく。
もちろん、「作文」を好きにしなければいつまでも完全には解除されないのだから、先に行った対処法へと行き着かなければならないのだけれども実際には、このプロセスを前提にして足場を着くって置いてやらないとなかなかうまくいかない。